TEDスピーチ文章-日本語下書き3
こんにちは。
このブログでは、海外のTED出演を目指した芸術家の徳重秀樹が、実際に出演するまでを記録していきます。
下書き2を読んでもらって
さて、書き直した「推敲後」を、前回同様、編集者の経験もある麻生マリ子さんに読んでもらいました。
「ダイナミックに構成がされて、すごくよくなった」と、合格をもらえました。
細かいところで
「冷凍ネズミをアート制作のために殺生はしていないということをきちんと伝えてもいいかもしれません。日本人は察するけれど、アメリカとかだと、はっきり言葉で言う文化だから」
「死や弔いのネガティブイメージについて、問いかけで投げかけて、聞き手に考えさせるのもいいのではないでしょうか?聞き手がイメージしたほうが、ギャップで徳重さんの打ち出す新たな死や弔いの美しさに、ますます心打たれるような気がします」
とのアドバイスをいただきました。
確かに、TEDでは海外の異文化の人たちに伝えるのだから、日本人にとっての当たり前の前提を外して、外からの目でもういちど見直す必要はありそうです。
助言をもとに、「冷凍ネズミ」のくだりと、「死や弔いのネガティブネガティブイメージの問いかけ」のくだりを書き直します。
そのほか、気になった場所をいくつか書き換えます。
これからも細かい変更はまだありそうですが、ざっくりとした全体の構成は、これでいいでしょう!
更新:2019-08-27
その後、麻生さんとのやり取りの中で、さらにいくつかアドバイスをもらいました。
「骨花を保存しないで、写真として残すのはなぜか」「骨そのものを生かして作るのはなぜか」ももう少し補足することにします。
なお、だいたいこの文章で、日本語だと6200字くらいになります。
これをTEDの動画の日本語翻訳の文章と照らし合わせた場合、18分くらいになるんじゃないかな。
TEDのスピーチ時間は18分が上限です。
すこし減らす必要があるでしょう。
本番では何があるかわからないので、15分くらいにおさめておきたい。
英語にしてからあらためて調整します。
次回からは、英語での下書きになります。
では、決定稿です。
TEDスピーチ文章-日本語下書き3
タイトル「Art can change the image of death」
アートは死のイメージを変える
(導入)
3年前、私はこんなメールを受け取りました。
(後ろの画面に写す)
(録音したアンナの声が読み上げる)
Dear Hideki,
Your sculptures are beautiful.
I wonder, do you take bone donations?
I am looking for an artist to donate my bones to once I die, to be crafted into artworks.
I am not planning to die soon, but one never knows!
Warm regards, Anna
なんとも不思議なメールです。
おどろいたことに、私が死んだらその骨をアート作品に使ってほしい、という依頼でした。
このアンナという女性に、会ったこともありません。
私はこの短いメールを、なんども読み返しました。
なぜこんなメールを受け取ることになったのか。
これから話してみましょう。
(本論1 骨花紹介)
私はアーティストです。
そして、これらが私の作品です。
これらはすべて、動物の骨と毛皮で作られています。
私は、まず骨で花を作ります。
骨は、削ったり折ったりしません。
本来の骨のかたちを、そのまま生かします。
針金や芯を入れることもありません。
接着剤のみを使って、実際の花と同じサイズに組み上げていきます。
わたしはオブジェを作りたいわけではありません。
私の望みは、動物の自然のかたちを、植物のかたちに移すことです。
自然にひそむ共通の構造を探しています。
スイセンは、マウスのあごの骨を組み合わせです。
ホオズキの実は、マウスの頭としっぽと背骨で作り、
その袋は、たくさんの肋骨で作っています。
アジサイの花びらは、ラットの肩甲骨の組み合わせです。
毛皮は、葉っぱに生まれ変わります。
花ができたら、写真を撮ります。
4×5インチの大判カメラで撮影したあと、
木の箱などに納めて、
見晴らしのいい土手などに行き、丁寧に土に埋めて葬ります。
「保存すればいいのに」と言われることもありますが、美しさとは「はかなさ」だと思います。
花は散るからこそ美しい。
だから、骨の花を残すことはしません。
私のアートは、物よりも行為に重きを置いています。
こうした感覚は、生まれ育った日本の、完全さより不完全さに美をみいだす文化からの影響もあると思います。
最終的には、写真のみを残します。
骨を取りだしてから、土に還すまで。そのプロセス全体がわたしの作品です。
これを「骨花 Honebana」と名付け、10年以上続けています。
「Hone」とは英語でbones、「Bana」はflowersを意味します。
( 「Honebana Bones Flowers」と画面に表示 )
ユリやタンポポ、アジサイなど、これまでに17種類の花を作ってきました。
(本論2 冷凍ネズミのこと)
一つの花の作品を作るのに、100匹以上、多いときには200匹以上の骨を使います。
花にする骨は、ラットやマウスのげっ歯類です。
どこで、そんなにたくさんのネズミを手に入れられるのでしょう?
アート制作のために殺すわけではありません。
彼らはペットショップで、爬虫類や猛きん類のエサ用に、凍った状態で売られています。
「冷凍ネズミ」と呼ばれています。
ヘビやフクロウを飼っている人ならば、知っているかもしれません。
解凍した後に、ペットのエサとして与えます。
最初、その存在を知らなかったので、そんなものが売られていることに大変驚きました。
「冷凍ネズミ」は、人の飼うペットのため、狭いゲージの中で生まれさせられ、育てられ、殺されて、エサになります。
彼らは、私たちが住む現代社会の、人工的に管理された自然の象徴のようだと感じました。
私はそのすべてを一匹ずつ解剖し、骨をクリーニングし、毛皮も取り出します。
一つの花を仕上げるのに、数か月かかります。
もっとも時間が掛かるのが、この骨取りの工程です。
私は人より怖がりです。ホラー映画や血を見ることも苦手です。
だから最初は、冷凍ネズミに触ることすら抵抗がありました。
ペストなどの病原菌を運ぶことも多いので、一般的にネズミのイメージって悪いですよね。
冷凍ネズミはペットの餌なので、病原菌は持っていません。それでも先入観は残ります。
しかしだんだんと、冷凍されているネズミたちに自己投影するようになり、むしろ親近感をかんじるようになりました。
ネズミもヒトも同じ哺乳類なので、骨格のつくりはよく似ています。
彼らの命を、美と生の象徴である花に転換し、芸術的に、誕生を死の循環を再構築することを意図しています。
(本論3 きっかけ、タヌキの体験)
私がなぜアート作品に骨を使うようになったのか?
きっかけは、これです。
(手にとって、タヌキの頭蓋骨を見せる)
これは、タヌキの頭蓋骨です。
はじめて動物の解剖を体験したのが、この彼でした。
そのころ私は、郷里で、養蜂家に弟子入りし、ミツバチを飼っていました。
小さい頃から生き物が好きで、そのままプロの養蜂家として身を立てようかと考えていました。
骨に興味をもったのも、その頃です。
「骨の学校」という、中学校の理科の先生が生徒たちに骨格標本の作り方をおしえる本を読みました。
それはとても興味深く、解剖の仕方がくわしく説明されていて、私も骨を取り出してみたい、とおもわせる本でした。
その中には、解剖の初心者にはタヌキが一番適している、と書かれていました。
中型動物が、大きすぎず小さすぎず、ちょうどいい大きさだと。
そうはいっても、死んだタヌキには、なかなかお目にかかりません。
そんなある日の早朝、スクーターで山道を走っていて、道端に、一匹の野生のタヌキが倒れているのを見つけました。
交通事故にでも遭ったのでしょう。
血は少し出ていましたが、外傷はあまりないようです。
おそるおそる、そのタヌキを家に連れて帰りました。
風呂場に横たえ、「骨の学校」を開きます。
中にはこう書いてあります。「まずお腹に縦に切り込みを入れる」
ところが、いざ解剖しようとすると、切れ込みどころか、素手で触ることも出来ません。怖くて目を見ることも出来ません。
なにより、そのタヌキが本当に死んでいるかどうかすら分からないことに、ショックを受けました。
目の前には、冷たいタヌキが横たわっています。すでに息もしておらず、脈もない。
しかしどうしても、「もしかしたら気絶しているだけではないか」という疑惑が消えません。
もしも、カミソリで切ったとたん、意識を取り戻したタヌキが、内臓を出して、血まみれのまま部屋中を走り回ったら。
想像できますか?それは悪夢そのものでした。
死んでいると100パーセント確信できなければ、腹を切ることなどできません。
生死の区別という、生き物としてもっとも基本的なことさえろくにできない自分に、がくぜんとしました。
風呂場で3時間迷いに迷い、もう少しも動かないことを確認した後、勇気を振りしぼってカミソリを腹に押し当てました。
それでも、ビニール手袋のなかの手は震え、前に進みません。
ところが、途中から不思議な感覚に襲われました。
皮をはいだり切ったりして解体をすすめていくと、だんだんと、ふだんスーパーに売られている「鳥のもも肉」とおなじような部位が、目の前に出来てきます。
いつもは似たものを、平気で触ったり、それどころか食べたりすらしている。
なのにいまは、素手で触ることすらできない。
この死んだタヌキの肉と「スーパーの鳥のもも肉」、何が違うのか?
どちらもおなじ「死んだ動物の肉」ではないか。
あたまはそう語りかけてきます。
にもかかわらず、手は拒否する。
手と頭が分離してつながらない。
そんな不思議な感覚をいだいたまま、本の説明をたよりに、何とか骨を取りだしました。
何時間たったのか、まったく覚えていません。
終わったときには、ただ精根尽き果てていました。
解剖の後、大きな鍋で骨を煮ながら、ようやく感覚が戻ったころ、ふと気が付きました。
そういえば、タヌキの喉元に、洗濯機のジャバラの白い排水ホースのようなものがあったな。と。ああ、あれが気管だったのか。
胸には、なにか幕があったな。ああ、あれが横隔膜だったのか。
「気管」も「横隔膜」も、言葉は当然知っていました。
知ってるつもりでした。
でも、なにも知らなかったんだ。
タヌキもヒトも、同じ哺乳類です。
サイズは違いますが、体のつくりはとても似ています。
私は何十年も生きてきたのに、自分自身の身体のことを何も知らなかったのだと、この時はじめて気がつきました。
死が分からないということは、つまり、生がわからないということです。
「君は生と死について何も知らない」
(もういちど、タヌキの頭蓋骨を見せる)
彼は、そう語りかけているようでした。
(本論4 骨と花がつながる)
その後、上京しました。
弟子入りしていた養蜂家に「君はもっと大きなことができる」といわれ、写真家になろうと決心したのです。
しかし道は簡単ではありません。
写真家を目指したにもかかわらず、いちども展示したこともなく、それどころか他人に作品をみせることさえできず、フォークリフトドライバーとして、工場と自宅を往復する毎日でした。
悩みながら、ひたすらに「自分にしか撮れない写真」を探していました。
そしてついに、その鬱屈した状況を打ち破る天の啓示を受けたのは、冬のある夕暮れのことでした。
人通りの多い交差点に通りかかると、雨が降ってきました。
雨宿りに近くのカフェに入り、二階席の窓から、急に暗くなった外を眺めます。
雨はますます強くなり、濡れて黒くなるアスファルト。
行きかう車の列と、反射する赤いテールランプ。
駆け足の歩行者たち。
その間で、いくつもの傘がパッパッと開いています。
その風景は、まるで、水面にハスの花が咲くようでした。
その瞬間、都会の真ん中に、骨でできたハスの花が咲くビジョンが見えました。
そうか!花だ!
「骨で花を作って、写真に撮る」というアイデアが、雷に打たれたように天から降ってきました。
あらゆる文化や宗教にとって、花は美の象徴、生のシンボルです。
死者に花をたむける行為は、人種を超え、普遍的です。
さらに、泥の中に咲くハスの花は、東洋では宗教的な花として知られています。
すぐに家に帰り、骨で花を作る方法を探し始めました。
もちろん、グーグルにもそれは載っていません。
すべてが手探りでした。
どうしたら骨だけで、削ったりせず、花が作れるだろうか。
どう組み合わせたら、骨が、花や葉に見えるだろうか。
試行錯誤をなんども繰り返しました。
そしてようやく、はじめての骨花の作品「ハス」を咲かすことができました。
その後、アーティストとしてデビューし、10年以上、活動を続けてきました。
そのあいだ、ずっとこころの根底にあったのは、「君は生と死について何も知らない」というタヌキの声でした。
私にとって「骨花」とは、あの声に、自分なりの答えを返す行為であった。いま振り返ると、そう感じます。
骨花は、相反する要素の統合でできています。
生と死、動物と植物、美と醜、色彩とモノクローム、自然と人工、そして創造と破壊。
分裂した価値観を問い直し、根源的につなぎ直すことは、アーティストの重要な役目であると信じています。
(結論 ふたたびアンナのメール)
このスピーチも、終わりに近づきました。
さあ、話を最初にもどしましょう。
2017年3月、アンナからのメールを受けた私は、たくさんの疑問を抱えて返信しました。
「まずはあなたのことを知る必要があります。あなたの人生を知らずにアート作品を作ることはできません。…よろしければ、あなたについてもっとお聞かせいただけませんか?」
こうして私とアンナは、メールの交換をはじめました。
イギリス人女性アンナは、常に臓器ドナーカードを携帯しており、血や器官だけでなく骨もまた寄付したいと考え、ネットで私のアートを知り、連絡してきました。
私よりも若く、作家として2冊の本も出版しています。
国籍も信仰も性別も異なる私たちは、多くの考えを交換し始めました。
生と死について。これまでの経験について。想像力のパワーについて。
そして、幼少時の思い出から現在の瞬間まで、互いが見て、聞いて、感じたことなどの視点を共有することを試みました。
やり取りをする中で、私は彼女の申し出を、真剣に考えるようになりました。
そして、この冒険的な取り組みを、さらに他の人にも広げたいと考えるようになりました。
死んだら、花のアートになる。「You bloom as the art」
これは新しい弔い方としての、次の「骨花プロジェクト」です。
このために、2019年からは、某光学機器メーカーと「骨の3Dプリンター」の共同開発を始めました。
「火葬後の骨の粉末を、手で壊せる固さで、土に還せる硬化剤で、立体造形できる3Dプリンター」の開発を目指しています。
この装置があれば、ひとの骨で、レースのように薄くて繊細なディテールをもった美しい花を作ることができます。
固さの調整も、着色も可能です。
アンナは、ポピーの花になりたいと言っています。
戦死した兵士との関連からではなく、ポピーが、元気さとこまやかさの調和を持っている花だからです。
(写真)
現代社会には、死をネガティブなものとして覆い隠そうとする風潮があります。
死はタブーとして忌み嫌われ、日常から隔離された病院の中で処理されます。
葬式の形式も、古い伝統や宗教に縛られたままです。
その人らしさよりも、形式や重苦しいしきたりが優先されています。
私は死に対してオープンだ、タブーもないと考える人がいるかもしれません。
そんな人も、ぜひひとつだけ考えてみてください。
あなたの葬式は、あなたが主役の、あなたの人生最後の集大成です。
そのデザインを、毎朝決める髪型や、デートに着ていくシャツや、ベッドルームの照明とおなじくらいのこだわりで、考えたことが一度でもありましたか?
人はみな規格品ではありません。
人生はみな違います。
ならば、弔いのデザインにも、人生の数だけあっていいと思いませんか?
私たちは、死の形式を「アート」で解放したい。
もっと美しく、もっとポジティブで、もっとあなたらしく。
自己表現としての、私たちの人生が反映された、死の新しいあり方をデザインします。
アートは死のイメージを変えることができる。
私はそれを、あのタヌキや、冷凍ネズミたちから学びました。
そして、いまここから、次のあたらしい冒険が始まります。
その記念すべき一歩目を、こうしてみなさんと共有できることに、私は感謝の気持ちでいっぱいです。
これから、ひとりひとりの新しい死のあり方を、ともに作っていきましょう。
会場にはアンナも来ています。
ぜひ、紹介させてください。
(アンナがステージに上がる)
最後に、私の好きなアンナの言葉で、このスピーチを終えたいと思います。
(後ろの画面に写す)
(文章を読む)
「Much of what we do is motivated by short-term gain, whereas art can provoke us to think beyond our lifetimes. 普段私たちがやっていることの多くは、短期間の利益を動機としています。しかしアートは私たちに寿命を超えた思考をもたらしてくれます。」
ありがとう。
以上です。
いかがだったでしょうか。
感想、助言、いただけると励みになります。
ご覧いただきありがとうございました。