TEDスピーチ文章-日本語下書き2
こんにちは。
このブログでは、海外のTED出演を目指した芸術家の徳重秀樹が、実際に出演するまでを記録していきます。
下書き1回目を読んでもらって
前回書いたプレゼンの文章を、インタビュアーや編集者の経験もある麻生マリ子さんに読んでもらいました。
麻生さんは、最初の展示から僕の作品を熱心に見てくれていて、困ったときには助言をいただいています。
言われたアドバイスは、以下のようなこと。
- 「何を伝えたいか」をもっと明確に
- タイトルをつけよう
- タヌキのエピソードはすごく印象的
- 時系列にそったエピソードの連続よりも、もっと効果的に編集したほうがいい
- アンナのメールではじまり、彼女の言葉で終わる構成はよかった
- スピーチコンサルタントの本や講座を受けるのもいい。
● 「何を伝えたいか」をもっと明確に。
これはつまり、「なぜアートをしてるのか」「アートとはなにか」ってことですね。
根幹の部分をもっと打ちだすために、構成としては、タヌキのエピソードを前面に出し、話題にその後も出すことで、縦につらぬくかたちにしました。
●また、「導入」→「本論1~4」→「結論」と構造をシンプルにしました。
●タイトルを「Art can change the image of death. アートは死のイメージを変えることができる」としました。
「image」という単語は、もっとほかにいい言葉がありそうです。ほかの言葉に変更する可能性が高いです。
タイトルは、短いキャッチコピーとしても使えるものにしたいので大事です。
英語のニュアンスを考慮する必要があるので、翻訳した後にネイティブに相談してから決定することにします。
ひとまずこれでいきます。
●「結論」のアンナとのプロジェクトのくだりに、情報を増やしました。
●時系列にこだわらず、エピソードのつながりから構成しました。
●まだ文章は多いですが、まずは構造を組み立ててから、削っていくことにします
いうわけで、麻生さんのアドバイスを参考に、スピーチ文章を書き換えてみました。
更新:2019-08-22
TEDスピーチ文章-日本語下書き2
タイトル「Art can change the image of death」
(導入)
3年前、私はこんなメールを受け取りました。
(後ろの画面に写す)
(録音したアンナの声が読み上げる)
Dear Hideki,
Your sculptures are beautiful.
I wonder, do you take bone donations?
I am looking for an artist to donate my bones to once I die, to be crafted into artworks.
I am not planning to die soon, but one never knows!
Warm regards, Anna
なんとも不思議なメールです。
おどろいたことに、私が死んだらその骨をアート作品に使ってほしい、という依頼でした。
このアンナという女性に、会ったこともありません。
私はこの短いメールを、なんども読み返しました。
なぜこんなメールを受け取ることになったのか。
これから数分間、話してみます。
(本論1 骨花紹介)
私はアーティストです。
そして、これらが私の作品です。
これらはすべて、動物の骨と毛皮で作られています。
私は、まず骨で花を作ります。
キンモクセイはマウスのあごの骨を組み合わせて。
ホオズキの実は、マウスの頭としっぽと背骨で作り、
その袋は、たくさんの肋骨で作っています。
アジサイの花びらは、ラットの肩甲骨の組み合わせです。
骨は、削ったり折ったりしません。
針金や芯を入れることもありません。
自然の骨のかたちをそのまま生かし、接着剤のみを使って、実際の花と同じサイズに組み上げていきます
その組み合わせ方をいろいろ変えることで、動物の身体を、植物のフォルムに移します。
毛皮は、葉っぱに生まれ変わります。
花ができたら、写真を撮ります。
4×5インチの大判カメラで撮影したあと、作った花は解体します。
木の箱などに納めて見晴らしのいい土手などに行き、丁寧に土に埋めて葬ります。
「保存すればいいのに」と言われることもありますが、美しさとは「はかなさ」だと思います。
花は散るから美しい。
だから骨の花を残すことはしません。
最終的には、写真のみを作品として残します。
骨を取りだして、土に還すまで。
これらのプロセスを「骨花 Honebana」と名付け、2008年から続けています。
骨とは英語でbones、花はflowersを意味します。
ユリやタンポポ、アジサイなど、これまでに17種類の花を作ってきました。
(本論2 冷凍ネズミのこと)
一つの花の作品を作るのに、100匹以上、多いときには200匹以上の骨を使います。
花にする骨は、ラットやマウスのげっ歯類です。
どこで、そんなにたくさんのネズミを手に入れられるのでしょう?
彼らはペットショップで、爬虫類や猛きん類のエサ用に、凍った状態で売られています。
「冷凍ネズミ」と呼ばれています。
ヘビやフクロウを飼っている人は、彼らをエサとして与えます。
「冷凍ネズミ」は、人の飼うペットのため、狭いゲージの中で生まれさせられ、育てられ、殺されて、エサになります。
最初、その存在を知らなかったので、そんなものが売られていることに大変驚きました。
彼らは、私たちが住む現代社会の、人工的に管理された自然の象徴のようだと感じました。
私はそのすべてを一匹ずつ解剖し、骨をクリーニングし、毛皮も取り出します。
一つの花を仕上げるのに、数か月かかります。
その中でもっとも時間が掛かるのが、この骨取りの工程です。
私は人より怖がりです。ホラー映画や血を見ることも苦手です。
だから最初は、冷凍ネズミに触ることに抵抗がありました。
しかしだんだんと、冷凍されているネズミたちに自己投影するようになり、むしろ親近感をかんじるようになりました。
ネズミもヒトも同じ哺乳類なので、骨格のつくりはよく似ています。
彼らの命を、美と生の象徴である花に転換し、芸術的にライフサイクルを再構築することを意図しています。
(本論3 きっかけ、タヌキの体験)
私がなぜアート作品に骨を使うようになったのか?
きっかけは、これです。
(手にとって、タヌキの頭蓋骨を見せる)
これは、タヌキの頭蓋骨です。
はじめて動物の解剖を体験したのが、この彼でした。
そのころ私は、郷里で、養蜂家に弟子入りし、ミツバチを飼っていました。
小さい頃から生き物が好きで、そのままプロの養蜂家として身を立てようかと考えていました。
骨に興味をもったのも、その頃です。
「骨の学校」という、中学校の理科の先生が生徒たちに骨格標本の作り方をおしえる本を読みました。
それはとても興味深く、解剖の仕方がくわしく説明されていて、私も骨を取り出してみたい、とおもわせる本でした。
その中には、解剖の初心者にはタヌキが一番適している、と書かれていました。
中型動物が、大きすぎず小さすぎず、ちょうどいい大きさだと。
そうはいっても、死んだタヌキには、なかなかお目にかかりません。
そんなある日の早朝、スクーターで山道を走っていて、道端に、一匹の野生のタヌキが倒れているのを見つけました。
交通事故にでも遭ったのでしょう。
血は少し出ていましたが、外傷はあまりないようです。
おそるおそる、そのタヌキを家に連れて帰りました。
風呂場に横たえ、「骨の学校」を開きます。
中にはこう書いてあります。「まずお腹に縦に切り込みを入れる」
ところが、いざ解剖しようとすると、切れ込みどころか、素手で触ることさえ出来ません。怖くて目を見ることも出来ません。
なにより、そのタヌキが本当に死んでいるかどうかすら分からないことに、ショックを受けました。
目の前には、すでに冷たくて、息もしておらず、脈もないタヌキが横たわっています。
しかし、「もしかしたら気絶しているだけではないか」という疑惑が、どうしても消えません。
もしも、カミソリで切ったとたん、意識を取り戻し、内臓が出て血まみれのタヌキが部屋中を走り回ったら。
想像できますか?それは悪夢そのものでした。
死んでいると100パーセント確信できなければ、腹を切ることなどできません。
生死の区別という基本的なことさえろくにできない自分に、がくぜんとしました。
風呂場で3時間迷いに迷い、もう少しも動かないことを確認した後、勇気を振りしぼってカミソリを腹に押し当てました。
それでも、ゴム手袋をした手は震え、前に進みません。
ところが、途中から不思議な感覚に襲われました。
皮をはいだり切ったりして解体をすすめていくと、だんだんと、ふだんスーパーに売られている「鳥のもも肉」とおなじような部位が、目の前に出来てきます。
いつもは似たものを、平気で触ったり、食べたりすらしている。
なのにいまは、素手で触ることすらできない。
この死んだタヌキの肉と「スーパーの鳥のもも肉」、何が違うのか?
どちらもおなじ「死んだ動物の肉」ではないか。
あたまはそう語りかけてきます。
にもかかわらず、手は拒否する。
手と頭が分離してつながらない。
そんな不思議な感覚をいだいたまま、本だけをたよりに、何とか骨を取りだしました。
何時間たったのか、まったく覚えていません。
終わったときには、ただ精根尽き果てていました。
解剖の後、大きな鍋で骨を煮ながら、ようやく感覚が戻ったころ、ふと気が付きました。
そういえば、タヌキの喉元に、なにか洗濯機のジャバラの白い排水ホースのようなものがあったな。と。ああ、あれが気管だったのか。
胸には、なにか幕があったな。ああ、あれが横隔膜だったのか。
「気管」も「横隔膜」も、言葉は当然知っていました。
知ってるつもりでした。
でも、なにも知らなかったんだ。
タヌキもヒトも、同じ哺乳類です。
サイズは違いますが、体のつくりはとても似ています。
私は、自分自身の身体のことを何も知らなかったのだと、この時はじめて気がつきました。
死が分からないということは、生がわからないということです。
「君は生と死について何も知らない」
(もういちど、タヌキの頭蓋骨を見せる)
彼は、そう語りかけているようでした。
(本論4 骨と花がつながる)
その後、上京しました。
弟子入りしていた養蜂家に「君はもっと大きなことができる」といわれ、東京で写真家になろうと決心したのです。
しかし道は簡単ではありません。
写真家を目指したにもかかわらず、いちども展示したこともなく、それどころか他人に作品をみせることさえできず、フォークリフトドライバーとして、工場と自宅を往復する毎日でした。
悩みながら、ひたすらに「自分にしか撮れない写真」を探していました。
そしてついに、その鬱屈した状況を打ち破る、天の啓示を受けたのは、冬のある夕暮れのことでした。
人通りの多い交差点に通りかかると、雨が降ってきました。
雨宿りに近くのカフェに入り、二階席の窓から、急に暗くなった外を眺めます。
雨はますます強くなり、濡れて黒くなるアスファルト。
行きかう車の列と、反射する赤いテールランプ。
駆け足の歩行者たち。
その間で、いくつもの傘がパッパッと開いています。
その風景は、まるで、水面にハスの花が咲くようでした。
その瞬間、都会の真ん中に、骨でできたハスの花が咲くビジョンが見えました。
そうか!花だ!
「骨で花を作って、写真に撮る」というアイデアが、雷に打たれたように天から降ってきました。
あらゆる文化や宗教にとって、花は美の象徴、生のシンボルです。
死者に花をたむける行為に、人種の違いはありません。
また、ハスの花は、東洋では宗教的な花として知られています。
すぐに家に帰り、骨で花を作る方法を探し始めました。
もちろん、グーグルにもそれは載っていません。
すべてが手探りでした。
どうしたら骨だけで、削ったりせず、花が作れるだろうか。
どう組み合わせたら、骨が、花や葉に見えるだろうか。
試行錯誤をなんども繰り返しました。
そしてようやく、はじめての骨花の作品「ハス」を咲かすことができました。
その後、アーティストとしてデビューし、10年以上、活動を続けてきました。
そのあいだ、ずっとこころの根底にあったのは、「君は生と死について何も知らない」というタヌキの声でした。
私にとって「骨花」とは、あの声に、自分なりの答えを返す行為であった。いま振り返ると、そう感じます。
骨花は、相反する要素の統合でできています。
生と死、動物と植物、美と醜、色彩とモノクローム、自然と人工、そして創造と破壊。
分裂した価値観を問い直し、根源的につなぎ直すことは、アーティストの重要な役目であると信じています。
(結論 ふたたびアンナのメール)
このスピーチも、終わりに近づきました。
さあ、話を最初にもどしましょう。
2017年3月、アンナからのメールを受けた私は、たくさんの疑問を抱えて返信しました。
「まずはあなたのことを知る必要があります。あなたの人生を知らずにアート作品を作ることはできません。…よろしければ、あなたについてもっとお聞かせいただけませんか?」
こうして私とアンナは、メールの交換をはじめました。
イギリス人女性アンナは、常に臓器ドナーカードを携帯しており、血や器官だけでなく骨もまた寄付したいと考え、ネットで私のアートを知り、連絡してきました。
私よりも若く、作家として2冊の本も出版しています。
国籍も信仰も性別も異なる私たちは、多くの考えを交換し始めました。
生と死について。これまでの経験について。想像力のパワーについて。
そして、幼少時の思い出から現在の瞬間まで、互いが見て、聞いて、感じたことなどの視点を共有することを試みました。
やり取りをする中で、私は彼女の申し出を、真剣に考えるようになりました。
そして、この冒険的な取り組みを、さらに他の人にも広げたいと考えるようになりました。
死んだら、花のアートになる。「You become the art」
新しい弔い方としての「骨花プロジェクト」です。
このために、2019年からは、某光学機器メーカーと「骨の3Dプリンター」の共同開発を始めました。
「火葬後の骨の粉末を、手で壊せる固さで、土に還せる硬化剤で、立体造形できる3Dプリンター」の開発を目指しています。
この装置があれば、ひとの骨で、レースのように薄くて繊細なディテールをもった美しい花を作ることができます。
固さの調整も、着色も可能です。
アンナは、ポピーの花になりたいと言っています。
(写真)
私たちが住む現代社会には、死をネガティブなものとして覆い隠そうとする風潮があります。
死はいまだにタブーとして存在します。
葬式の形式も、古い伝統や宗教に縛られたままです。
その人らしさよりも、重苦しいしきたりや形式が優先されています。
でもひとつだけ考えてみてください。
あなたの葬式は、あなたが主役の、あなたの人生最後の集大成です。
そのデザインを、毎朝決める髪型や、デートに着ていくシャツや、ベッドルームの照明とおなじくらいのこだわりで、考えたことが一度でもありましたか?
人はみな規格品ではありません。
人生はみな違います。
ならば、弔いの方法にも、人の数だけいろいろあっていいと思いませんか?
私たちは、死の形式を「アート」で解放したい。
もっと美しく、もっとポジティブで、もっとあなたらしく。
自己表現としての、死の新しい在り方をデザインします。
アートは死のイメージを変えることができる。
私はそれを、あのタヌキや、冷凍ネズミたちから学びました。
そして、いまここから、次のあたらしい冒険が始まります。
その記念すべき一歩目を、こうしてみなさんと共有できることに、私は感謝の気持ちでいっぱいです。
会場にはアンナも来ています。
ぜひ、紹介させてください。
(アンナがステージに上がる)
最後に、私の好きなアンナの言葉で、このスピーチを終えたいと思います。
(後ろの画面に写す)
(文章を読む)
「Much of what we do is motivated by short-term gain, whereas art can provoke us to think beyond our lifetimes. 普段私たちがやっていることの多くは、短期間の利益を動機としています。しかしアートは私たちに寿命を超えた思考をもたらしてくれます。」
ありがとう。
以上です。
いかがだったでしょうか。
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ご覧いただきありがとうございました。